e-OHNO MAIL NEWS 第203号

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 e-OHNO MAIL NEWS 第203号 2021/08/26

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こんにちは。

今回のメールマガジンは、以下のコンテンツでお送りいたします。

  ■ 今月号のコンテンツ ■ (敬称略)

【1】 日本仏教の父と母 大野高裕

【2】 リレーエッセイ第36号 

(シニアの部)   小林正憲

(中堅の部)   福田大造

(若手の部)   田中里奈

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「日本仏教の父と母」 大野高裕8月初めに、以前からずっと訪れてみたいと思っていた京都市外の北へ車で1時間半ほど、鞍馬のさらに奥にある旅館に行ってきました。そこは季節ごとにその土地で取れる野菜、山菜や川魚を中心にお料理してくれる旅館で、一晩に3組しかお客さんしか泊めません。創業が昭和初期からなので和風建築の建物も古いのですが、手入れが行き届いていて柱や梁などはいいツヤに輝いています。テレビやWiFiなども一切なく、世の中の騒ぎや日常の心配事とは隔絶した時間を過ごすことができました。写真のような大悲山という霊山の麓の山奥ですから、川のせせらぎ以外に一切音はしません。部屋の畳とふすまと床の間、そして座卓があって座布団に座る。床の間を見ると掛け軸には夏をあしらった「渓間拾流菜」5文字の漢文が書かれ、その前には小さな白い花をつけた名も知らぬ山木の枝が1本さりげなく花瓶に生けてあります。反対側を眺めれば大きなガラス窓から写真の景色が広がっています。何ともぜいたくで、ゆったりした時間、いや時間が止まっておりました。 

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こうした時間を過ごすことに、若い頃はそれが「なんとかけがえのないものか」と感じることはありませんでした。「えっ、テレビがないの? ネットも繋がらないの? 何もすることないの? 退屈で死んでしまいそう~」、もしも若い頃にここを訪ねていたら、きっとそう思ったと思います。「ディズニーランド行きたい、ネオン街で弾けたい、分厚いステーキ食べた~い」というのが本当で、この旅館のように山菜、野菜、川魚づくしでは、夜食に「カップラーメン頂戴!」というのが本音でしょう。 

昔はさんざっぱら、肉食、ネオン食の極みでしたから、自分の大変化に驚きます。もちろん、それらが全く無くなったわけではありませんが、こってり系の味付けでは気づかなかった薄味の微妙な出汁や塩加減、えぐみや甘さが少しずつ理解できるようになり、また静けさの中に心の平穏を見つける喜びを感じます。これは若い時には「こってり系」がトコトンだったからこそで、その対極にある「あっさり系」を今は愛でることができるのだと思います。若い時には若い時の価値基準が、そして行動があってしかるべきです。有り余るエネルギーがある時には、「こってり系」でいいのです。そうでなければなりません。そしてその経験を経て「あっさり系」にシフトする。年代、ライフステージごとに物事の感じ方や価値観、行動様式が変化することは素晴らしいことなのではないでしょうか。変化するということは経験を踏まえて進化しているということです。幼少のころから老齢化するまで、何も変わらないのであれば、それは余りにもったいない。せっかくですから一人の人間が年代の変化とともに、一度限りの人生を幾通りもの生き方をする方が「お得」なのではないでしょうか?(もちろん、根源的な絶対に大切な価値(感謝や利他)は不変であるべきでしょうが) 

さて、夕食でお料理が出てくるときに、それぞれの食材が山や近所の畑でどのように育てられ取られてきたのかというお話も聞かせてもらいました。他のお店などでも、調理方法については聞かせてもらうことがありますが、食材のルーツまでを聞くことはあまりありません。それは調理する人が食材をどこかで買ってくるので、その先にある食材の上流部分まではよく分からないということで、それが普通でしょう。しかし、この旅館では食材をご主人が自分で取ってくる、育てている、ご近所から手に入れるのでルーツまで教えてくれます。今回は出ませんでしたが、季節によっては知り合いの猟師さんが山で仕留めたイノシシの肉も出るようです。そのため、お肉や魚、そして野菜にしても、その命を摘ませてもらって、食卓を飾らせてもらっている、食させていただくという感覚をもちます。それぞれの命をいただいているという実感が強く感じられます。食べることは命をいただくことだと、これは先月号にも書きましたが、まさにその通りの夕飯をいただきました。そして「ありがたい」ということと、命をいただいた分、自分が代わりに果たすべきことを常に自覚するのだという再確認しました。 

ところで、せっかく関西まで来たのだからと、別のところにもう1泊することにして、同行した友人の運転で、比叡山延暦寺と高野山金剛峰寺に詣でることにしました。そうです、二大密教の聖地巡りです。まず、比叡山に登りましたが、急坂・急カーブの連続で、先人たちはどうやってこの山に登り、資材を運んでお寺を建てたのか、その確固たる信念の強さに度肝を抜かれました。そして、天台宗総本山の延暦寺ですが、ご承知の通り最澄(伝教大師)が開祖です。ここからはパンフレットやテレビ番組の受け売りなので、あまり深いところは不勉強で知りませんが、この比叡山延暦寺は「日本仏教の母山」と呼ばれ、平安密教以降のほとんど主なすべての新たな仏教宗派がここから誕生しています。時宗の一遍上人、浄土宗の法然上人、浄土真宗の親鸞聖人、曹洞宗の道元禅師、臨済宗の栄西禅師、日蓮宗の日蓮上人などがこの比叡山延暦寺で修業を積み、それぞれが一宗を開きました。今、書き連ねた仏教宗派と僧侶名はいずれも昔教科書で習ったなじみのあるものばかりです。 

普通なら別の宗派を作るとなれば、それは「裏切者!」とのレッテルを貼られて追放されてしまいそうです。しかし、延暦寺にはこうした名僧たちの肖像画や木像が金堂に安置され、大切に祀られているのです。それは開祖最澄の懐の深さなのではないかと思います。最澄は数名しか任命されない国家の僧侶となりましたが、修行中に天台の教えに触れ、当時主流だった奈良仏教から距離を置き、比叡山で修行をしていました。そして京都に遷都した桓武天皇に見出されました。当時は飢饉や疫病で民が苦しんでいたようで、最澄はそれを救うべく天台の教えをさらに深めようと、遣唐使船での留学を願い出て中国に渡ります。そして天台とともに、当時中国でははやり始めていた密教も修めて帰国しました。これらには禅の教えも含まれていたようで、後代に様々な仏教として宗派が独立する種子はすでに最澄の天台宗には存在していたということになります。すなわち、平安貴族向けの密教、知識のない庶民でも「ナムアミダブツ」とだけ唱えれば極楽に行ける念仏系仏教、そして武士階級の禅宗がこの比叡山延暦寺から巣立っていく素地が最初からあったということです。その巣立ちをすべて包み込む最澄とその教えの懐の深さには圧倒されてしまいます。まさに母の慈愛というべきでしょう。 

一方、弘法大師空海の開いた高野山金剛峰寺ですが、こちらもすごい! 高野山のある和歌山県は京都市内からは思いのほか遠くて、現地であまり過ごす時間がなかったのですが、とにかくスケールがバカでかいことにまず圧倒されました。金剛峯寺を中心に大きな町ができている感じです。宿坊・飲食店・お土産屋さんはもちろんのこと、町役場もあるし、高野山と名のつく中学・高校・大学もあります。そこをめぐる時間がなかったので、弘法大師空海の眠る奥の院・御廟へと向かったのですが、一の橋から御廟までの参道の両側はお墓と慰霊塔でびっしりなのです。その距離はゆうに1キロメートルはあろうかと思いますが、名だたる大名家や一般人のものすごく大きなお墓や、企業が従業員関係者のために建てたこれも巨大な敷地の慰霊塔が参道の両脇の奥が見えないほどに立ち並んでいるのです。都内にも青山墓地や谷中霊園など数多くありますが、そうしたところとは全く違い、石、石、石の羅列なのです。中にはシロアリ駆除の会社が建てたシロアリの慰霊碑もありました。このあたりは日本人らしい万物すべてに対する分け隔てない優しさを感じます。 

高野山が開かれてから1200年以上の歴史があるわけですから、この霊廟に続くお墓群も1200年の時を刻んでおり、一歩進むごとに、まるで歴史の年表を眺めるかのような気持ちになりました。ここに眠っている人たち全てが、弘法大師空海とともにあるという安心感を持っている、それを求めてここに眠っているのではないかと感じます。それは弘法大師ゆかりの四国八十八か所のお寺をめぐるお遍路さんも同じなのではないかと思います。お遍路さんは白装束を着ていますが、背中には「南無大師遍照金剛」と弘法大師の法名(密名)が書かれており、「同行二人」と言って常に弘法大師と歩いていると言われ、手には弘法大師の化身といわれる金剛杖を持ちます。今でも多くの人がお遍路さんに取り組んでおられます(海外の人も含めて)が、それは弘法大師の強烈なカリスマ性が現代まで脈々とつながっているということを示しているのだと思います。 

御廟に連なるお墓群もお遍路さんも、1200年経っても慕われ続ける弘法大師空海の魅力の賜物です。数多くの奇跡を起こしたという伝承をあまた残した強烈な個性、カリスマ性の塊である弘法大師空海をぶれない軸として、彼の開いた真言宗は1200年の時を刻んできたのでしょう。一方、伝教大師最澄の天台宗は同じ密教ながらも日本仏教の母山として数多くの新たな仏の教えを世に送り出してきました。真言宗が弘法大師空海という「求心力」で発展を遂げたのに対して、天台宗は伝教大師最澄という「遠心力」で発展を遂げてきたと見ることができるのではないでしょうか。まったく正反対の二人が日本密教の巨人として優劣なくに存在していることの多様性のすばらしさに感動します。どちらも本当に素晴らしい。 

ところで、最澄は766年生まれ、空海は774年生まれで8歳近いですが同じ時代です。実は空海も最澄が乗った遣唐使船で中国に留学します。最澄は1年間の国費留学でしたが、空海は私費留学で20年間の留学義務を負っていました。最澄は天台の教えを得るために、主に天台山に上って修行をしましたが、護摩を焚いて疫病退散などのご利益が高く、当時興隆してきた密教も修めようと、その修業を数か月ほど積みました。一方、空海は密教修めようと2年間密教の本山青龍寺の恵果和尚の下で密教の全てを伝授されます。そして朝廷との20年間留学の約束を違えて2年間で帰国してしまいます。これは死罪にも当たる行為だったのですが、最澄のとりなしで事なきを得たと言います。その後、最澄は密教の素晴らしさを重く感じたものの、自身の修行が短かったために、8歳年下である空海に弟子入りを願い出ます。空海は最初、中国から持ち帰った経典を最澄に貸しますが、その後貸し出しを拒否します。それは密教の神髄は経典の理解に留まらず、心身の修行による実践が欠かせない(お遍路さんもその一環でしょう)という信念に基づいてのことだったようです。そのために二人は疎遠となってしまいました。最澄が空海のところに派遣した一番弟子も真言密教に魅かれてそのまま留まってしまったといいます。 

こうした逸話にも最澄と空海の二人の特徴、そして同じ密教でも天台宗と真言宗の違いというものを感じ取ることができると思います。最澄の全てを包み込む母のようなおおらかさと、空海の激烈で先鋭的な父のような強さは対極にあるように思われます。しかし、どちらが優れているということではなく、父と母がいて初めて子供が生まれ、そしてすくすくと育つように、どちらも欠かせないのです。この二人が同じ時代に生まれて活躍したというのは一つの奇跡です。二人の巨人がいなければ後世の日本仏教の発展はなかったからです。そして、モノゴトの発展には単一の価値観ではなく多様性が重要であり、またその原点は父と母、あるいは男性と女性であるということに、改めて気づかせていただきました。この旅以降、家内・みな子さんの言葉には、これまで以上にしっかりと耳を傾けるように心がけております。南無。 

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【リレーエッセイシニアの部 小林正憲】

皆様、こんにちは。 

2003年修士修了の小林正憲です。 

(たぶん修了したと思うのですが、たまに実は修了していなかったという夢を見るので、もはや定かではありません。) 

早いもので大野研を巣立って20年が経過しようとしており、この度サッカー仲間の大好きな齊藤さんからパスを頂きましたので、この機会にこれまでの人生を少し振り返ってみたいと思います。何か皆様にも伝わるものがあれば幸いです。 

自分の人生を一言で表すと、「行き当たりばったり」、「易きに流れる」という言葉がすぐに浮かんできます。 

地元愛知県で高校まで過ごし、父はエンジニアの理系一家、大学は名古屋大学で、就職先はトヨタ自動車みたいな雰囲気が周りにまん延していましたが、次男の私はそれに対する反発心もあり、早稲田で経営システム工学を学びたいと上京しました(一人暮らししたかっただけかもしれません!)。 

東京ライフが楽しすぎて先のことは何も考えずに過ごしてましたが、ある日突然ゼミを決めないといけないという状況になり、ぱっと頭に浮かんだのが大野先生でした。当時(失礼ながら)思ったのは、「なんか変なオーラを出して楽しそうに講義している先生がいたなあ」と、これが決め手でした。 

無事大野研に入れて頂き、しばらくすると、就職活動をするか大学院に行くかを決める時期に差し掛かり、そこで当時大野研の2つ上の先輩で修士課程にいらっしゃった渡邊さんが監査法人で非常勤で働いており、その姿に憧れて、就職活動も面倒だったので、それまで聞いたこともなかった公認会計士を目指そうと決めました。 

その後、私も修士課程に通いながら監査法人で非常勤勤務を始め、修了後はそのままあずさ監査法人に入所しました。監査法人の方々は皆優秀できっちりと仕事をやりきる方が多く感銘を受けましたが、ある程度答えが見えたらすぐ飽きてしまう適当な私には少し難しい部分もありました。 

数年監査法人で勤務している中で、いろんな方々と出会い、その中でインベストメントバンカーなる(当時)かっこいい刺激的な人たちもいて、その影響もあり2007年初から野村證券の企業情報部に転職し、M&Aアドバイザリービジネスを始めました。 

当時の企業情報部は野村證券では異質な存在で、100名ほどの部員のうち半分が中途採用で、プロフェッショナルの集団と言われてました。とにかく激務でしたが、確かに色んなバックグラウンドの方々がいて刺激的な日々でした。M&A案件は1件1件に個性があり、それに合わせて最適なアプローチを考えながら進めていくのですが、成立確度は必ずしも高くなく、毎回波乱万丈で苦しみが多いですが、その分成就した時にクライアント、ディールチーム皆で味わう喜びは格別のものがあります(ストレスフルな仕事という捉え方もありますが、私は飽きの来ない仕事と捉えてます)。 

12年ほど企業情報部で過ごした後、更なる刺激を求めて、2018年にロンドンのM&Aチームに異動させて頂き、妻と子供3人を連れてロンドンに赴任しました。 

ロンドンでは、言語、文化、ビジネス慣習の違いなどで、とにかく業務はよく炎上しましたが、それ以上に得難い経験をたくさんさせて頂きました。 

ロンドンはご存じの通り、コロナの第一波が猛威を振るい、厳格なロックダウンが長く続いたこともあり、2020年3月半ばから日本に帰任した2021年3月まででオフィスに出社できたのはわずか4日間と、最後の1年はほぼ大半が在宅勤務となりました。 

厳格なロックダウン中はスーパーマーケット以外は完全に閉まっており、家から出られるのも1日1回エクササイズのみ(公園で座っていると警官に怒られました)と、かなり窮屈な生活でしたが、幸いにも借りていた家が広く(築200年ですが)、裏庭にフットサルコートがあったりと比較的恵まれた環境で、家族と過ごすかけがえのない時間だったなあと今は思います。 

帰任後、今は何というめぐりあわせか、地元の雄、トヨタ自動車を担当するカバレッジバンカーとして、名古屋での単身赴任生活を始めております。これは希望でもなかったわけですが、100年に一度の変革期にある自動車業界の中心にいる会社と、今このタイミングでご一緒できることは、かなりのプレッシャーではありますが、この上なく刺激的で有難い機会だと思っています。 

大学時代を振り返ると、あの頃は楽しかったなあといつも思いますが、それと同時に、20代後半、30代、40代と年を経るに連れて人生どんどん楽しくなってきてるなあ、とも感じています。 

客観的に見て、本当にそうかは分かりませんが、おそらく仕事や趣味でご一緒してきた方々、家族や友人にいい影響を頂いてそんなマインドを持てるようになったのかなと思っています(それでも心が折れそうな時は、戦争映画を見て、自分がいかに幸せか再確認したりします)。 

自分の置かれている環境を物理的に変えるのは簡単ではないかもしれませんが、自分の置かれている環境の捉え方を変えて、もう少しポジティブに楽しむことは誰にでも出来るかもしれません。 

私もそろそろ当時大野研に在籍していた時の大野先生の年齢に近づいてきてますし、そろそろ変なオーラをまとって自分のチームや周りの人たちに振りまいて、自分がそれで救われてきたように、周りにいい影響を与えられるようになっていかないと思う日々です。 

最後に、学生の皆さんには是非色んなところに飛び込んでみてほしいと思います。 

失敗しても命を奪われることもない時代です。 

いい経験も苦い経験もたくさんして下さい、その全てが財産です。 

次回は、大野研同期で、同じ野村證券にいる親友の栗原広明君にバトンタッチします。 

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写真は、コロナ前の2019年秋、家族とアイスランドのブルーラグーンの前で 

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【リレーエッセイ 中堅の部 福田大造】

皆様、こんにちは。2010年学部卒の福田大造と申します。 

伊藤忠商事、旅館経営、ベンチャー上場、そして近況を書かせて頂いております。少々長いですがお付き合い頂けますと嬉しいです。 

■伊藤忠商事時代 

私は2010年伊藤忠商事株式会社に入社をして繊維カンパニーに配属をされました。事業投資ではなく主に海外営業というところで配属されたためいわゆる商社マンのイメージで泥臭く勤務していました。 

理系出身ということもあり、営業の他には部署によりよいExcelの使い方を共有、無駄な業務をマクロで業務削減していました。また、内部統制等々にも関わらせて頂き今までの商社新卒入社のメンバーとはちょっと違った活躍をしていたのではないかなと思います。 

■旅館の経営時代 

私、実家が旅館を経営しております。「ほたるの長屋」という熊本の旅館です。 

全室離れ、部屋食部屋風呂、源泉かけ流しという小さいながら初代で立ち上げた母のこだわりが詰まった旅館です。 

2012年夏頃、伊藤忠商事を退職して実家の旅館の経営に携わる事になりました。 

中国駐在を前にしての退社でしたが、少し旧態依然とした組織風土や半端な気持ちで繊維に進んだこともあり活躍の場が他にあるのではないかと悩んでいた時でした。 

その時、実家が旅館の経営において人員不足を主要因とした経営難となっておりいわゆる「なんでも屋さん」というロールで実家の立て直しを図りました。 

その後プライベートブランドでお醤油を作ったり、蕎麦屋さんを新規出店したりと小さいながら経営や新規事業という楽しさを学びました。 

ここで、働き方や考え方を変える転機が訪れます。 

余命宣告を受け最後の旅行になるという老夫婦の接客をすることとなりました。ご宿泊後、すごく喜んでくださり玄関口でお見送りをしている時に母親が泣いているわけではないですが強く目をつぶっている姿を見て「こんな顔をして自分の仕事をしてみたい」と願うようになりました。 

ちょうどその後、私の後任の人が見つかり、私は再度東京に戻ることを決め次の行き先を検討することとなります。 

■株式会社ビズリーチ ( 現ビジョナル株式会社 ) 現職 

大学時代にインターンをしていた株式会社groovesという会社の役員がビズリーチの部長として転職をしており、その方がきっかけで入社。初回面談が5月13日でしたが6月1日には働き初めていました。 

ITベンチャーで働いてみたいと漠然とした志望理由です。今思えば同期の長井くんがDeNAで活躍していたのも要因の一つだなと思っています。 

ビズリーチには350名の規模の時に入社をしました。 

まず担当したのは事業企画というポジションで、ビジネスに関わる数値を正しく集計して事業戦略に提言をしていく部署でした。 

そこで感じたのは、とにかくベンチャーは仕事の質とスピードをうまく見極めながら必要最低限な質のアウトプットをいかに早く出していくかがポイントなのだなと実感をさせられました。 

1年ほどの事業企画の経験を経て、その後は新卒採用の責任者として抜擢されました。おそらくファーストキャリアがそれなりに強く、理系採用を強化したいという背景からかなと感じています。 

私自身のミッションとしては戦略的に新卒採用を行うこと、全社を巻き込んで新卒採用のプレゼンスを上げることだと捉え全力で仕事をしました。初年度チームでMVT ( 最優秀チーム賞 )を獲得することとなります。 

その後、メルカリ社からお声がかかり転職を検討していると上司に漏らすと当時の社長の南壮一郎氏が直接飲みに誘ってくれて3時間ほどキャリアについて話し合っていました。その時、自分は事業を1から創れる力が欲しいと伝えてHRMOSというタレントマネジメントシステムの立ち上げを提案されます。 

HRMOSは採用管理ツールとして2016年にリリースし2018年には一定のポジションを築けていたのですが、タレントマネジメント領域に展開する構想が中々進んでいない現状でした。その時にビジネスメンバー1人目としてプロジェクトに招いて頂いたのです。事業戦略、営業戦略、採用戦略などを片っ端から固めながら自らも営業、カスタマーサクセスを兼任し拡大しました。 

事業づくりに欠かせないのは想いです。元々、教育分野に興味はあったのですが、その教育の先にある「働く」を知らなければいけないと考え方を変えました。そして「親が子供に仕事を自慢する社会を創りたい」と本気で思うようになりました。 

着任して3年、ようやくHRMOSタレントマネジメントとしてCM放映が出来る規模となり自分としては感無量です。 

■ビジョナル株式会社、上場そして今思うこと 

仕事に熱中しているうちに、会社が上場を迎えました。大型上場として各メディアが取り扱ってくれました。今まで時価総額という言葉が少し他人事のように感じていたのですが今は自分ごととしてかなり身近な言葉となりました。 

世の中の貢献の仕方はたくさんあると思いますが、自分は事業を創るということで今までになかった価値を創ることで社会に関わっています。自分主体でビジネスを創りそれをスケールさせていくことがこんなにも楽しくやりがいのあることだとは思いませんでした。 

今は自分のスキルを少しでも広く役立てるために友人のベンチャーの評価制度設計や採用戦略の立案を個人で手伝ったりもしています。 

今後は、あと1社(おそらく数年)全力でビジネスに没頭したあとは少し早めのリタイアをして趣味の料理でも作りながら自分の本当に好きなことを追求する時間にしようと考えています。 

長い文章、お読み頂きありがとうございました。 

そしてこのような機会を頂きありがとうございます。大野研究室の皆様は経営やファイナンスに関わられる方が多いかと思いますが、ベンチャーや人事という切り口でもし何かお力になれることがあればお気軽に声をかけてください。 

今は大変なご時世ですがまた明けたときにはお目にかかれるのを楽しみにしています! 

P.S. 

プライベートの部分は長く独り身ではございましたが、7月24日に婚約をいたしました。同期よりはだいぶ遅れてのライフイベントでしたが公私ともに充実出来るよう頑張っていきます。 

( 以下写真、婚約者と三軒茶屋の自宅にて ) 

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【リレーエッセイ 若手の部 田中里奈】

皆さま、初めまして。 
同期の大窪くんからバトンを頂きました、2020年度学部卒の田中里奈と申します。 
卒論の際は大野先生をはじめ、大野研の皆さまに助けていただきました。ありがとうございました。 
 
私は昨年みずほリサーチ&テクノロジーズ(旧みずほ情報総研)に入社し、本年4月で2年目になりました。 
1年目の6月までITに関する幅広い研修を行い、7月に現在の部署に配属されました。3ヶ月の研修は、本来同期との親交が深まる楽しい期間だと聞いていましたが、コロナの影響により研修開始から約1週間で完全リモートになってしまい、同期と仲良くなり始めた頃にさよならしてしまうという悲しい結果になってしまいました。 
それでもどうにか連絡を取り合い去年までは感染対策をしながら同期と交流を深めていましたが、状況が悪化した今は殆ど会うことができていません。 
同じ部署の同期が1人いるのですが、その子とは気が合い仲良くできていることがせめてもの救いです。 
 
私の部署では、社内のさまざまな業務フローを一つのシステムで管理することのできるアプリの販売・導入・保守を行っています。その中でも私の所属するチームはみずほグループ外の一般企業に対して販売を行っているため、みずほ関連の仕事に関わる事はありません。 
 
配属されて1ヶ月後くらいから実案件に携わり、先輩と共に要件定義やテスト、アプリのインストール等を行っています。既存のアプリをお客様の要望に合わせてカスタマイズする事がメインなので、がっつりとしたプログラミングは基本行わず、xmlファイルによる画面レイアウト修正や資料作成が普段の業務です。インストール時はお客様のもとに出向くこともあれば、このような状況下ですのでサーバーを送って頂き自社内でやることもあります。 
また、先月はアプリそのものの開発業務にも携わりプログラミングや本格的な結合テスト等を経験しました。 
基本的にリモートワークで、特に開発業務の際は殆ど会社の人との交流もなく1人で黙々と作業しているので、本当に寂しいです。 
 
そしてここまで会社の事を書いておいてなんですが、現在転職活動中です。パンデミックで自分自身について振り返ることができ、自分の望む将来に繋がる仕事に就きたいと考えています。 
皆さんも就活時は将来をよく考えて会社を選ぶ事をお勧めします。 
 
最後に、先月宝塚歌劇を観に行った際の写真を添付いたします。この公演は宝塚に入団したばかりの新人(初舞台生)がお披露目される所謂初舞台公演でした。宝塚は学生時代からよく観劇していたのですが初舞台公演を観るのは初めてだったので、初々しさや輝きにとても感動しました。 
宝塚もコロナの影響で度々公演中止を余儀なくされています。1日も早く事態が収束する事を願っています。 
 
拙い文章で恐縮ですが、ここまでお読み頂きありがとうございました。 
 
次は、同期の冨田くんにバトンを渡します。 

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 ◇◆ 編集後記 ◇◆

「e-OHNO MAIL NEWS第203号」はいかがでしたか。

e-OHNO MAIL NEWS で大野研OB・OGへ発信したい情報等ございましたらお寄せください。お待ちしております。