教授紹介

大野髙裕教授(早稲田大学創造理工学部経営システム工学科教授)

【経歴】
1978年早稲田大学理工学部工業経営学科(現経営システム工学科)卒業
1984年同大学理工学部助手
1986年大学院博士課程修了
1988年工学博士、早稲田大学専任講師
1989年助教授
1995年教授

【主要論文・著書】
・非対称な消費者選好下における新規参入戦略モデル、日本経営工学会誌vol47,no.4(1997)
・ラグランジュ緩和による委託手数料を考慮したポートフォリオ・リバランス問題の解法、情報処理学会誌vol.38,no.11(1997)
・企業行動と経営工学(共著)、中央経済社 (1993)
・損益計算書入門塾、かんき出版多変量解析入門、国友館(1998)

リサーチマップ
大野先生自身による自己紹介
「研究室の外側で」

 大野研究室のホームページが立ち上がったのが今から16年前の1998年のこと。その時に書いた「自己紹介」は大学入学後25年たった43歳の時で、これがずっと16年間も変わることなく、そのページは人々の目にさらされ続けてきた。さすがに「そろそろリニューアルしろ!」という声に押されて書き換えることになった。もちろん、 16年前の「自己紹介」もホームページにはそのまま掲載しているが、「あれから16年間、どうだったの?」と自分に問いかけてみる。16年前にはちょうど、大学本部の仕事に関わることになる最初の年だった。奥島孝康総長時代、学生部の副部長を頼まれて、大学運営の何たるかも皆目わからないままに飛び込み、いまだ過激派が跋扈していた「キャンパス正常化」の仕事をした。今でも「武闘派」と呼ばれる誤解の所以はここにある。正常化がひと段落して「やれやれこれで責任を果たした」と任期途中3年間で職を辞して、研究室に帰り「正常」な教員に戻った。と思っていたのもほんの束の間で、今度は白井克彦総長の下、国際部に引っ張り出された。海外のことにはまったく疎い超ドメスティックの極みの私への見当違いなご下命にはクラクラと眩暈がしたが、「大学のグローバル化を経営的な観点でアプローチしてほしい」という話だったので、ついつい引き受けてしまい、副部長、留学センター所長、国際部長と結局合計7年間も早稲田のグローバル化の仕事に携わってしまった。  そしてその次は鎌田薫総長の指揮の下、教務部へと横滑りし、大学全体の教育系統の「現場の元締め」みたいな役目を担うこととなった。国際部が「外務省」ならば教務部は「内務省」で、学内の交通整理のおまわりさんのような役回りだった。折りしも鎌田総長発案の中長期計画「Waseda Vision 150」の策定作業に参画し、これを実行する機会にもめぐり合った。いま大学業界は早稲田だけでなく、改革を断行しなければどこも現状維持のままでは、決して生き残れない状況にあり、サバイバルゲームの真っ只中にある。教務部長の仕事が4年間続き、何とかゴールまでたどり着いたのが昨年11月初旬。その翌日からは情報化推進・経営企画担当の理事を仰せつかって現在に至っている。<br>結局、この16年間のうち14年間にわたって大学本部の仕事に携わってしまい、とうとう15年目に突入した。大学教授であれば教育研究に専念して、わき目も振らず各専門分野の「ノーベル賞」を目指すのが筋だろうが、本業の能力に乏しいがために、脇道にそれたアウトローの生活を送ってしまっている。それでも大野研究室にはいつも多くの優秀な学部生・大学院生が集って、素晴らしい研究・学業成果を挙げ、そして人間力も磨き、社会で優れた活躍をしてくれている。不良な「オヤジ」を持ちながらも自立心強く立派に育っていくわが研究室の学生には「ありがたいなあ」といつも感謝と尊敬の気持ちでいっぱいである。 (2015年1月17日記) 「四半世紀前の人間カラオケマシン」 キャンパスを歩いていると様々な髪型やファッションの学生とすれ違う.びっくりするような色に染めている髪,転ばないかと心配したくなるノッポの靴,こんなのがかっこいいのかなと理解に苦しむような服.「何という時代なんだ」とため息をつきかけたとたん,ふっと二十五年前,自分が早稲田大学の学生になったあの当時の記憶がよみがえった.そういえば,あのころとそっくりじゃないか.染めてはいないが長い髪,ウェスタンブーツを意識したハイヒール,裾の広がったパンタロンのジーンズをはいてキャンパスを得意げに闊歩していたのはこの私じゃないかと思わず苦笑してしまった.  そうそうあのころもう一つの定番は,フォークギター.「ニューフォーク」といわれるジャンルがブームで,吉田拓郎,南こうせつのかぐや姫,財津和夫のチューリップ,小田和正のオフコースなどの曲が弾きたくて,歌いたくて皆で練習をした.C,Am, D7,G7などと必死でコードを覚えたが,なかなかいい音がでなくて,しかも弦を押さえる指先がマメで痛くなってしまったものだ. 腕前でいえば私なんかよりも,はるかに上手なギターの弾き手はたくさんいたけれども,私には一つの特技があった.それはどんな曲でも,譜面なしで伴奏できてしまうことだ.聴いたことのある曲ならば,誰かが歌えば,それに合わせてコードを何となくうまく当てはめることができてしまう.当時はまだカラオケがなかったから,とても重宝された.ジャンルはニューフォークから演歌まで,何でもOKだった.そう,今はほとんど見かけることができなくなった飲み屋街の「流し」のお兄さんまでの芸域には達していないものの,そこそこいい線いっていたものだ.仲間で飲むとき,家族で宴会をやるときには必ずと言っていいほど,「おい,ギターもってこいよ」と人間カラオケマシンとして私は活躍した.  最近は通信カラオケなど最新兵器があるから,全くお座敷は掛からない.それに最近の曲のコード進行は難しすぎて,弾けない.老朽化した二十五年前のカラオケマシンには荷が重すぎる.もう出番がないであろうあのころのギターは,今でもがっちりしたケースに納まって,私の書斎の片隅でひっそりと暮らしている.

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